本当のところはどうなの?のブログ

本当のところはどうなの???

聖書

今日も聖書についての話題。

聖書の内容は一般人にはお伽噺と思われているだろう。
中には物語だと信じて疑わない人もいる。
そんなものを信じているの?とか言われてしまうことがほとんどなのかもしれない。

ヨガ的にみれば聖書に書かれてある内容のすべてとは言えないまでもほとんどは真理について書かれていることが確認できる。それは以前にも書いたが「相対性と絶対の関係」である。
これ無しには聖書が物語りか真理なのかはわからない。
もっとも聖書は生きたキリストを見たことがない人達が書いたものだと言われているので、その内容は気を付けて解釈する必要はある。
真理を探すのであれば相対性について言及している部分に着目しなければならない。
しかし聖書の中によく出てくる「悪人」とか「罪」とか「罰」とか言う部分は僕の観点から見れば、キリストが教えたことではない内容ではないかと考える。聖書の他の部分の内容からしてキリストは悪や不正などから超越しているように感じられる。
つまり相対性を指摘しているので悪があるからこそ善が生じるものであり、そのような関係の中であるのは悪と善は自分を具体化させるきっかけになるということである。
これに対して自分を具体化させるものは何であれ感謝することになるものなのだ。
感謝しなければならないということではなく、自然と感謝してしまうのである。
なぜならば自分という存在をよりはっきりとさせるものなのだから。
人間の意識と犬の意識は違う。
犬は人間のように対象に対してはっきりと決め付けることは出来ない。
なぜならば意識はまだ個別意識を持ってはいないので対象を十分に断定できないのだ。
よりあいまいな意識だと言える。
犬よりももっと低級な意識はさらに断定できない意識を持っているとも言える。
例えばライオンは猫よりも低級な意識を持つと言われているが、彼らは個別意識を持たないために数が数えられない。だから彼らの子供の数も数えられないと言う。
数を数えられるということは先ず自分が個別に存在しているという意識を持っていなければできないことなのである。
一方人間は個別意識を持つ。
意識の進化の過程ですべての魂はあいまいな動物の意識を持ってきたと言われているが、その動物意識が進化して何らかのきっかけで初めて個別意識を持った動物の意識が人間の魂になることが出来ると言われている。
だからより具体化した経験を得るためには、善と同様悪も必要になってくるのである。
「悪」がなくなればそれと同時に「善」もなくなる。
しかしそれでは具体化は出来ない。
つまり意識の進化は出来なくなる。
だからキリストがこれらのことを本当に言ったのかが非常に疑問になる部分である。