本当のところはどうなの?のブログ

本当のところはどうなの???

経験

久々に神との対話からの引用。

『さて、皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。
経験をないがしろにしているから、神を経験しても、それが神について教えられたことと違うと、たちまち経験を捨てて言葉のほうをとる。ところが、ほんとうは逆であるべきなのだ。』

人間にとって経験は真実である。
しかし言葉は解釈である。
ある言葉がどのように意味づけされたかは、一人一人によって異なる。

本当はある言葉に対して同じ意味など存在しない。
というよりも言葉自体が同じ言葉というものはない。
それはどういうことかというと、例えば物質的なアプローチからすれば、
ある言葉、例えば「りんご」でもいい。
ここに書いた「りんご」は先に書いた「りんご」とは同じ様に見えるが、パソコン上での画素の位置が異なる。だから同じものではない。これは画面上に書いた位置関係から判断した場合だ。
次に果物である「りんご」を実際に手に取り、「これはりんごです」といった時の場合。
およそこの世にあるもので変化しないものはない。
これは「りんご」ですと言った次の瞬間には、そのりんごだったものは経時変化で、もうその時の「りんご」とは違ったものになっている。しかしそれでもそれをりんごだと思っているだろう。私たちは変化に対して同一のものだと思い込む癖があるからなのだ。

しかし経験は瞬間瞬間であり、代替のきかないものである。
要するに言葉は経験の代替であり、経験は代替ではなく真実だいうことだ。
そして言葉の持つ意味は経験とともに変わっていく。
それは経験が増える度に認識が深まり、自分の見えている水平線がさらに遠くまで見渡せるようになり、対象に対して新しい意味づけをすることになるからである。
言葉の意味は時代によって変化する。

そういったことを考慮して、ぼくがひどいと思うのはキリスト教関係だと思う。
キリスト教は聖書を非常に重視している。
古い言葉を現代の常識、しかも偏った。。。から判断しようとする。
真理を説けるはずがない。。。
そもそも教会の牧師は真理を知らない。。。権力のことしか考えてない。。。
自分を善人にしようとして必死だ。。。
呆れちゃう。

教会は権力に満ち満ちている。
そして偽善だらけだ。
信者を地獄で脅し、恐怖心を植え付ける。

果たして完全である者が人を脅かすことがあるのだろうか?
いったい何のために?

教会は偽善に満ち満ちている。