富士山に挑戦するなら知っておきたい…標高3200mで何が起こるのか
---------- たとえば、ある山に登ろう、と決心したとき、体力はどれくらい必要で、水と食料はどれくらい持って行けばいいのか。体力とは自動車のエンジンのようなもので、自分のエンジンが大型なのか小型なのかを理解しておくことも大切だ。さらに、山の気温はどれくらいで、衣服はどれほど持って行けばいいのか。食料、水はどうか。これらを余分に持って行きたくなるが、荷物が重くなると登山どころではなくなってしまう。 【写真】ついにわかった「ジムに行かなくても体力がつく」すごい方法 このような問いに答えるべく、登山というスポーツを環境・運動生理学の立場から科学的に解説し、実験データに基づいた、無理のない登山術を紹介する。 いうまでもなく、登山でもっとも重要なことは安全である。最近は中高年者の登山事故が増えているが、その原因には「自分の体力を自覚していない」「登山というスポーツのキツさを知らない」「自分の体力にあった登山計画を立てられない」といったことがあげられる。これらの対策をすれば、事故はもっと減り、より安全で挑戦的な登山が可能になるだろう。 *本記事は能勢 博『山に登る前に読む本』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。 ----------
富士山に挑戦しよう
中高年の登山者で、「富士山に登りたい」という希望を持っておられる方は多い。実際に登られたご経験のある方も多いだろう。富士登山者は夏の2ヵ月間のシーズンだけで年間30万人にもなるという。 富士山(標高3776m)は登山道や山小屋がよく整備されていて、歩行の難易度は低いが、怖いのは高地障害(高山病)である。登山前には高山病の知識を付けて、対策を講じておく必要があろう。
高山病は八合目から
これまでに富士登山を経験した方で、五合目の登山口から順調に登山してきたのに、八合目の小屋付近から、急に、動悸がし、息が上がり(息苦しく感じ)、足が重くなったという経験を持つ登山者は少なくない。なかには、頭痛、吐き気まで感じた方もおられるだろう。 その原因は、高度の上昇にしたがって気圧が低下し、それに比例して大気中の酸素分圧が低下するが、それが体に影響を及ぼしはじめる高度が3200mで、八合目付近がその高さだからである。いわゆる「高山病」の症状が出始めるのが八合目付近、ということだ。 では、なぜ、その高度で急に症状が出だすのであろうか。図1に動脈血中の肺胞内の酸素分圧(高度)とヘモグロビンの酸素飽和度との関係を示す。肺胞内の酸素分圧とは、肺胞で血液と接している酸素の圧力で、平地では大気圧が760mmHgなので、その14%に相当する。 ヘモグロビンは血色素とも呼ばれ赤血球に含まれる。そのために血は赤い。ヘモグロビンは酸素と結合しやすく、空気と血液が肺の肺胞と呼ばれる非常に薄い膜を介して接すると、肺胞と血液の酸素分圧の差にしたがい、すばやく肺胞中の酸素が血液に溶け込む。したがって肺胞内と動脈血中のガス分圧はほぼ等しい。 気圧は、平地(標高0m)では760mmHgであったものが、富士山八合目(標高3200m)では520mmHgに低下する。そのときの肺胞内の酸素分圧は、それぞれ100mmHgから50mmHgにまで低下する。 一方、ヘモグロビン全量の何%が酸素と結合しているか(酸素飽和度)をみると、肺胞内の酸素分圧が60mmHg以上では、ほぼ100%近くを飽和しているが、それ以下で急激に低下するのがわかる。これはヘモグロビンの物理化学的な特性である。 こうしたメカニズムで、3200mまでは平地となんら変わらない「シンドサ」で登山できるが、それを超えると急に低酸素に対する体の反応が起こるのだ。たとえば、呼吸が著しく亢進する、すなわち、息が上がり、息苦しさを感じる。 では、この息苦しさの原因は何だろうか。
標高3200mで何が起こるのか
まず、図2を見ていただくと、肺胞内(動脈血中)の二酸化炭素分圧が上昇すれば、その上昇の程度に応じて「鋭敏に」かつ「直線的に」呼吸気量が上昇しているのがわかる。 たとえば、私たちは、呼吸を30秒ぐらい止めると息苦しさを感じるが、これは頸動脈にある化学受容器で二酸化炭素分圧の上昇を感知して、この情報が延髄の呼吸中枢に伝えられ、「もっと呼吸をして、二酸化炭素を体外に排泄してください」という信号が、大脳にも認識されたからである。 一方、このとき、体は酸素不足になっているのか、というと、全くそうではない。ヘモグロビンの酸素飽和度が60%以下に達するとチアノーゼといって、唇、眼瞼粘膜が紫色になるが、30秒息を止めてもそのような症状はみられない。血液中にまだ酸素は十分あるのだ。 すなわち、私たちの日ごろの呼吸は、血液中の二酸化炭素分圧変化に依存しておこなわれているのだ。これを「呼吸のCO2ドライブ」と呼ぶ。 次に、図3を見ていただくと、肺胞内(動脈血中)の酸素分圧が低下すると、それが60mmHgに低下するまでは呼吸量はさほど顕著に増えないが、それ以下になると「指数関数的」に呼吸気量が増えることがわかる。 これも頸動脈の化学受容体によって惹き起こされる。このときに感じる息苦しさは、非常に強く、体にとっては緊急事態の警報なのだ。登山によって酸素消費量が増えて、肺胞内の酸素分圧が少し下がるだけで呼吸が著しく促進する。これが、富士山の八合目(標高3200m)付近でおこるのだ。
高山病のメカニズム
さて、このような呼吸になって困るのは、動脈血中の二酸化炭素分圧の調節が無視されるということである。つまり、平地では「二酸化炭素分圧を40mmHgにするように」呼吸をフィードバックしてきたのに、これからは、酸素分圧を確保するために呼吸をおこなうということである。これを「呼吸のO2ドライブ」という。 「呼吸のO2ドライブ」では、大げさにいえば、肺胞内(血液中)の二酸化炭素分圧は、どうなろうが知ったこっちゃない、ということになる。その結果、過換気になって血中二酸化炭素分圧が34mmHgに低下してしまう。 では、この程度、血中二酸化炭素分圧が低下したらどうなるのか。そのときの症状を体験するには、10回ほど深呼吸をすればよい。 これは、子供のころ、夏に海水浴に行ったとき、早く海に入りたくて浮き袋をふくらましたときに体験した症状である。手の先の血管が収縮してピリピリして、頭がフラフラして、目の前が真っ暗になったことを覚えておられないだろうか。いわゆる過呼吸症候群と呼ばれる症状である。このように動脈血の二酸化炭素分圧がほんの少し低下するだけでもこのような症状が出てくる。 ヘモグロビンの酸素飽和度は3200m高度で80%になるが、そのため最大酸素消費量の低下が起きる。動脈血中の酸素飽和度が平地の100%から80%に低下すると、以下の酸素消費量の計算式にあてはめて、Aさんの場合、3200m高度での最大酸素消費量は1780mLとなり、平地で求めた2373mLの75%となる。 ---------- VO2(mL/分)=HR(拍/分)×SV(mL血液/拍)×【CaO2(mLO2/mL血液)-CvO2(mLO2/mL血液)】 ここで、VO2は酸素消費量で、1分間あたり何mLの酸素を体内で燃焼させることができるかの指標である。HRは心拍数で、1分間あたりの心臓の拍動数。SVは一回心拍出量で、心臓が1回収縮して拍出できる血液量。CaO2は、動脈血酸素含有量で、心臓から全身に拍出される動脈の血液1mLあたりに溶解している酸素の量。CvO2は、静脈血酸素含有量で、心臓に戻ってくる静脈血液1mLあたりに溶解している酸素の量である。 ---------- すなわち、Aさんが、常念岳を登山したときの酸素消費量が1分間あたり1450mLで、平地の最大酸素消費量の59%に相当し、「きつい」登山をしていたが、3200m高度で、もし同じ速度で登っていたら、その高度の最大酸素消費量の81%だから「非常にきつい」登山となる。この高度を超えると急に動悸を感じるのが納得できる。 さらに、最大酸素消費量の60~70%以上の相対運動強度では、筋肉の血液中の乳酸が上昇してくる。その結果、強い息切れ、息苦しさを感じる。さらに、二酸化炭素の排泄による動脈血二酸化炭素分圧の低下が脳血管を収縮させ、それらは相乗して頭痛、吐き気を引き起こす。
能勢 博(信州大学学術研究院医学系特任教授)