本当のところはどうなの?のブログ

本当のところはどうなの???

意識とは何か?

このブログでもあちこちで「意識」について書いてきた。
現代科学信奉者にとっては物質以前に意識があるとは夢にも思わないだろう。
その理由は粗い精度の測定器から精密な測定器の精度を測定するような状況と似ているためである。
物質とは目に見えるエネルギーのことであり、、物質肉体が同期を取れるほどに振動数が遅くなったことを表し、意識とはあらゆる現象を識別する能力であり物質が何かということを判断するためには当然それ以上の振動数が必要になる。そうでなければ上述した測定器の例の様に粗い精度から精密な精度を測定するようなことと同じようになってしまうからである。
 
「全てのものにとって目に見える」ことが現代科学の条件のようなものである。
このアイディアは前提が「全てのものにとって目に見える」とした時点で間違っているのであるが、それを絶対的な基準として構成された学問なので前提自体が間違えているとは思いもよらないだろう。でもその前提は間違っている。
「見える」というのは様々なレベルがあり、生命が進化していく過程でその波長域も変化していく。
 
「見える」というのは実は私たちが以前に見た記憶物と同じか同じではないかということを判断しているということである。これは画像認識などをやっていればわかることだと思うけれど、生命はどれも自分の外側にあるものと内部にあるもの(記憶)を比較して同一性を常に判断し続けているのである。
その高速の判断は意識が行う。
物質意識というのもあることはあるが、物質のエネルギーのスピードは非常に遅いため、ここで以前書いたものさしの例えのように周波数の低いものから周波数の高いものを判断することは出来ない。
判断しようとすると確率論のようになってしまう。
物質意識から得られる情報というものは非常にゆっくりしたものでしかないため、その特徴すら捉えることは出来ない。
これが物質の性質を捉えられると考えるならば大間違いである。
 
現代科学を信奉している人たちは1番大事なことに気が付いてない。
それは私たちが判断することがどういうことなのか?
つまりなぜ私たちが「分かる」ということが出来るのか?「分かる」とは一体どういうことなのか?ということをまるで理解していないことである。その「分かる」ということ、つまりものさしがどの様なものであるかと言うことを知って初めて判断した対象がどの様なものであるということを理解できるのである。自分のものさしがどのようなものであるかを知らずして対象を判断しても、そこに意味はないのである。
これは物質に例えれば、私たちが使う測定器がどのようなものなのかを知らなければ、測定結果がどのようなものであるという判断ができないのと同じである。
だからすべてのものにおいて「境界値」という問題が生じ、終いには確率論まで出てきてしまう結果となる。
 
単純に進むべき考え方の方向が違っているのだ。
 
宇宙においてすべては意識である。
宇宙に意識でないものは存在しない。
そして意識はエネルギーでもある。
そして意識は生命でもある。
宇宙は生命で満たされている。
生命でないものは存在しない。
だから生命と非生命の境界線など存在しない。
境界線自体もすべて生命である。
 
生物と非生物を分けること自体、現代の人間の無知さ加減をさらけ出しているのであり、後世での笑いのネタである。本気で非生物などと考えているのなら自分の思考の固さを自覚するべきだと思う。