本当のところはどうなの?のブログ

本当のところはどうなの???

死について

「死」について話をするときは、「生」について話をしなければならないと言う。
 
人間は「楽」をして生きて行きたいと思う。
出来るだけ苦労したくない。
辛い目に会うのは嫌だ。
そんな生き方を望む。
 
このような考え方からわかる事がある。
苦労しない人生は学べない。
学ぶことと苦労することは切り離すことは出来ない。
 
霊的な成長とは意識の成長だと言う。
もっと言えば意識の拡大である。
私たちが知っている「自分」の範囲を拡げていくことだという。
 
たいていの人は「自分」とは固定されたものだと思っている。
ところが苦労した人生を送れば少しずつ意識の拡大が起こっていく。
今まで自分が思っていたことは単に思い込みであったということを理解するようになる。
意識の拡大は固定観念の喪失でもある。
私たちの固定観念は私たち自身の「自分」という意識を拘束している。
すべての固定物は宇宙において抵抗を受けることになる。
これが苦労するということである。
 
私たちはこの世で「楽」を欲するが、あの世と比べればこの世は何もしなくても苦しいところである。
それを敢えてこの世に出てきたということは「楽」をするためにわざわざ生まれ出てきたわけではないということを理解しなければならない。
それを心に留め、すべての状況において自分の置かれている立場が何なのかを判断し続ける必要がある。
この世にいる限り、あの世よりは辛いのは当然のことなのであり、魂はそれをよく知っているのである。
 
以下、神智学大要から抜粋
「この複体が離脱する間(複体とは物質を構成するエネルギーの青写真のようなもの)、そしてまたその後、人は自分の過去よりの全生涯を自分の魂の前に急速に繰り広げて見せつけられる。今まで秘めてきた記憶の隅々から、秘密という秘密が絵巻物のように次から次へと展開するのである。この時間にして僅々数秒の間に魂はその全生涯をいわばふたたび生きるのである。彼、彼女は数々の成功と失敗、数々の愛と憎しみを見、そのすべてを支配してきた傾向を観、自分の全生涯を支配してきた考え方が浮き彫りにされ、死後の生活の主な部分を送ることになる界層が明らかとなる。まことにもプラーナは肉の身の死とともにすべてを回収し、肉体よりの離脱とともにその一切を、一切の受け入れ手である「知る者」魂へと手渡すのである。」
この神智学大要に書かれている内容は死後に起こる現象のごく一般的に言われていることと同じである。
この記述からわかるように、私たちの「自分」という意識は「思考」により維持されているということである。
肉体の「死」をもってこの思考も崩壊し、そこに秘密が明らかになる。全ての秘密はこのとき明かされる。
そう、秘密にすればするほど私たちの心にはそれを中心とした塊のようなものが出来て、それによって思考のクセのようなものが出来る。
私たちは必死で秘密にしていたことが死後と言われる瞬間に何の抵抗もなくあからさまになる。
死後暴露されることも知らずに私たちはこの世ですばらしい演技をしているということになる。 
あなたの秘密もこのときすべての魂に明かされることになる。それは覚えておいた方がいいだろう。
 
魂は死のときがこの世の清算になる。
意識の成長とは意識の拡大である。 
私たちの意識が拡大すれば、秘密はその分減って行くことになる。
そのゴールは「秘密の無い状態」である。
実はそれが「全智全能」の全智ということに他ならない。
 
 
「エーテル質料が離脱してアストラル体にからみつくため当人は物質界で機能することもアストラル体で機能することもできないため、短時間ながら平和な無意識状態が続く。人によってはエーテル界から数分のうちに抜け出すのもいるが、中には数時間、数日、時には数週間もその中にとどまる者もいるが、普通は数時間で抜け出すものである。
 時日の経過とともに、高次元の各体は次第に複体より離脱し、抜け殻となった複体はいわばエーテル死体となって肉体の近くにとどまり、両者とも分解していく。これらのエーテル体のいわゆる死霊は、よく墓場で人の目に触れ、あるいは菫色あるいは青色の霞が光の相を呈するが、次々と分解、腐敗して行き、その様は見るからにぞっとする。火葬には大きな利点が幾つもあるが、その1つは、死体を焼くことによってエーテル体がいわばその巣(肉体)を失って急速に分解することにある。」
死後、この無意識状態が続くと言うのはいくつかの本にも書かれている。
通常であれば、ここに書かれてあるとおり、エーテル界から魂は抜け出すことが出来るという。
しかし死後の状態を知らない、あるいは死がすべての終わりだと信じている者にとっては、この世に彷徨ってしまう不幸な原因となってしまうということである。
ちなみに『神との対話』ではあくまでも魂の存在が基準となっているので「死は存在しない」と言い切っている。あくまでも神の視点で言うこの言葉こそ真実に近い言葉だと私も思う。