山岳会の中高年9人で北アルプスへ
越中美津雄(こしなかみつお・61歳)が山登りを始めたのは、山好きだった父親の影響を受けてのことだ。中学生のときに槍・穂高連峰の登山口となる上高地から標高2300メートルの涸沢(からさわ)に連れていってもらった記憶があり、高校生のころには東京近郊の奥多摩の山々を歩くようになっていた。社会人になってからは職場の仲間と連れ立って登るようになり、25歳で結婚すると、妻と2人で行くことも増えた。
仕事が忙しかったので、そう頻繁には登れなかったが、夏山から縦走、ロッククライミング、沢登り、雪山、山スキーまで、登山のひととおりのジャンルをオールラウンドにこなした。同行者はそのときどきで、職場の仲間や妻と登ることもあれば、ひとりで行くこともあった。
技術や知識は独学で習得したが、40歳を迎えるころに自分の技術がどれぐらいのレベルなのか知りたくなって、東京都内の社会人山岳会に入った。この会は一般登山よりもクライミング的な志向が強く、ここで初めてアイスクライミングを体験した。しかしほかのジャンルでは、それまで培ってきた技術が充分通用することが確認できた。
定例山行でサブリーダーに
会の活動はおもしろかったが、千葉に引っ越すことになったため、5、6年で退会した。その後は、山岳会などに請われて雪上訓練やロッククライミングなどの講師を務めながら、マイペースで山に登っていた。定年後は、ヨーロッパやネパールなど海外の山をあちこち登ったのち、地元の社会人山岳サークル、柏市山岳協会に入った。
柏市山岳協会は2003(平成15)年の創立で、関東近郊の山や北アルプス、東北の山を中心に、四季を通してハイキングや一般登山、縦走登山などを楽しんでいる。会員数は50人ほどで、中高年層が主軸だという。
その2012(平成24)年の8月定例山行は、北アルプスの表銀座コースで実施されることになった。表銀座コースというのは、長野県安曇野市にある中房(なかぶさ)温泉を起点として燕(つばくろ)岳から大天井(おてんしょう)岳へと縦走し、喜作新道から東鎌尾根を経て槍ヶ岳へ至る登山コースのこと。
「銀座」の名の由来は、東鎌尾根に喜作新道を拓いた山案内人の小林喜作が、まるで銀座を散歩するような軽装で山を駆け歩いていたことによるというが、昔から槍ヶ岳へのメインルートとして銀座のような賑わいを見せていたからだという説もある。
計画では、山行期間は8月16日から19日までの前夜発2泊3日で、この表銀座コースをたどり、槍ヶ岳からは槍沢を経て上高地に下山する予定であった。メンバーは50~70代の9人(男性5人、女性4人)で、登山の経験豊かな女性がリーダーとなり、越中はサブリーダーを務めた。
雷がゴロゴロ鳴り出し…
16日の夜9時、9人のメンバーは柏駅に集合し、電車で竹橋駅へ出て、高速夜行バスの毎日あるぺん号で登山口の中房温泉に向かった。中房温泉に到着したのは17日の朝6時ごろ。天気は晴れで、若干雲があった。
駐車場にはすでに数台のバスと自家用車が停まっていて、出発準備をする登山者で賑わっていた。9人も各自、身支度を整え、朝食をとって6時35分に行動を開始した。
中房温泉から燕岳へと続く合戦(かっせん)尾根は、標高差約1200メートルで、剱(つるぎ)岳の早月(はやつき)尾根、烏帽子(えぼし)岳のブナ立尾根とともに「北アルプス三大急登」と呼ばれている。
しかし、登りの標準コースタイムは約4時間半とさほど長くなく、危険箇所もほとんどないため、北アルプスの入門コースとして人気が高い。第1ベンチ(休憩ポイント)、第2ベンチ、富士見ベンチを経て、9人が合戦小屋に着いたのが10時45分。ペースは若干遅めだった。
合戦小屋で名物のスイカを食べて喉を潤してから再び歩きはじめ、燕山荘には12時前に到着した。ここで昼食をとったのち、荷物を置いて身軽な恰好で燕岳を往復した。
燕岳の山頂までは片道30分ほどの距離だが、小屋を出てすぐ、雨がぽつぽつと落ちてきた。この日の宿泊地は、燕山荘からさらに3時間ほど先にある山小屋・大天荘(だいてんそう)。先はまだ長いので、頂上を踏んで早々に燕山荘にもどり、再びザックを背負って南へ延びる稜線をたどりはじめた。
この時点で時刻は午後1時40分。コースタイムどおりに歩いても、大天荘に着くのは夕方5時ごろになってしまいそうなので、健脚の越中がひとり先を急ぎ、一行の到着が遅くなることを小屋に知らせることにした。越中が振り返ってこう言う。
「1日目の行程がちょっと長すぎたかもしれませんね。燕岳も往復してますし」
稜線をたどっている途中から雷がゴロゴロ鳴り出し、雨も本格的に降り出した。越中は雨に濡れる前に大天荘に逃げ込めたが、ほかのメンバーが到着したのはおよそ1時間後の午後5時15分。みんな雨具を着ていたがずぶ濡れとなっており、寒さを訴える者もいた。
交通機関に夜行バスを利用したため、前夜はみな充分な睡眠がとれなかった。そのうえ、行動時間は11時間近くに及んだ。それでも体調を崩す者はなく、無事、一日を終えることができた。
突然の天候悪化、そして事故発生
翌18日は朝4時前に起床し、4時35分にヘッドランプを点けて小屋を出発した。この日は槍ヶ岳直下の槍ヶ岳山荘まで、約7時間の行程である。
40分ほど歩いて山小屋・大天井ヒュッテに着いたところで、外のテーブルで朝食のお弁当を食べた。天気はよく、6時25分にビックリ平に到着すると突然視界が開け、槍ヶ岳からはるか剱岳に連なる北アルプスの雄大な峰々が一望できた。
ヒュッテ西岳に到着したのが8時半。この先、水俣乗越(みなまたのっこし)を越えてヒュッテ大槍までは、梯子(はしご)やクサリ場が次々と現れる険しい尾根道が続く。ほかのパーティや単独行の登山者と言葉を交わしながら抜きつ抜かれつしているうちに、進行方向に見えていた槍ヶ岳が少しずつ雲間に見え隠れしはじめた。
最後の鉄梯子を越え、東鎌尾根の核心部が終わったところで休憩をとり、昼食とした。時刻は11時半。明日下っていく予定の槍沢方面のルートがよく見えていた。
ところが、その直後に雨が落ちてきた。最初はすぐにやむだろうと思っていたが、しだいにあたりが暗くなって雨足も強まってきた。9人は慌てて昼食を切り上げて雨具を着込み、その先にあるヒュッテ大槍にとりあえず避難することにした。
雷がゴロゴロと鳴り出したのは、「ヒュッテ大槍まであと20分」と書かれた標識が現れたあたりだった。それから雷雲に囲まれるまで、大して時間はかからなかった。雨は本降りとなり、稲光が走って雷鳴が轟(とどろ)いた。
「いちばん安全なのは山小屋に避難することです。『どうしようかな』と思いましたが、周囲は低い木ばかりの灌木(かんぼく)帯で、身を隠せるようなところはありませんでした。だから『小屋まで行ってしまえ』と判断し、私が先頭になって先を急ぎました」
と越中は言う。
雷に打たれ、記憶が途切れた
「ヒュッテ大槍まであと10分」の標識があるところで時計を見たら12時ちょうどを指しており、「あともう少しだ」と思った。途中、大きな岩があったが、落雷を避けられそうな安全な場所とはいえなかったので、そのまま小屋を目指した。
「もう完全に雷に取り囲まれちゃっていて、雷鳴も稲光もすごかった。頭の上でどんちゃかどんちゃか鳴っていたから、これは近いなと思いました。とにかく早く小屋に逃げ込むことだけを考えてました」
「ヒュッテ大槍まであと3分」の標識が現れると、灌木帯が途切れて背の低いハイマツ帯になった。そのなかを、岩だらけの道が延びていた。
突然開けた場所に飛び出してしまい、越中は「あっ」と思ったという。次の瞬間に、記憶がぷつんと途切れた。
9人のメンバーは、越中を先頭に一列縦隊で歩いていた。その瞬間、2番目を歩いていた者は「両手にピピッときた」と言い、3番手の者は「ドスン」というような音を聞いた。4番手の者は体の右側に大きな衝撃を感じ、前を見たら越中が倒れるところだった。7番手の者は右手に強烈な衝撃を感じると同時に、ストックの先端から青い閃光が発せられるのを見た。8番手の者は、全身に強烈な衝撃を受け、千切れたビニール片のようなものが見えた。5番手と6番手および最後尾の者は、なにも感じなかった。
雷に打たれたのは越中ひとりだけで、幸いほかの8人は無事だった。倒れた越中の状態を確認すると呼吸が認められたので、ツエルト(簡易テント)を被せて雨除けとし、男性メンバー2人が救助要請のためヒュッテ大槍へと走った。ほかの者はそばにあった岩陰に避難した。
仲間に声を掛けようとしたが…
ヒュッテ大槍に駆け込んだ2人は、仲間ひとりが雷に打たれて意識を失っていることを報告し、救援を要請した。しかし、現場周辺は雷雲の真っ只中にあるため、迂闊に飛び出していくと二次災害が起きる可能性が高く、すぐに動き出すことはできなかった。
被雷しておよそ10分後の12時20分ごろ、気がつくと越中は、雨の中で倒れていて、体にはツエルトが被されていた。雷が落ちた瞬間の記憶はまったくなく、なんでツエルトが被されているのだろうと思った。
腰から下が麻痺していて動かせず、耳鳴りもひどかった。とくに左耳は詰まったような感覚があって、なにも聞こえなかった。首、背中と腰に痛みがあり、左胸にも苦しさを感じた。
しばらく朦朧(もうろう)としていたのち、ツエルトの空気穴から外をのぞいてみると、男性メンバーの顔が間近に見えた。声を掛けようとしたが、思うように声が出ない。越中が意識を取り戻したことに仲間が気づき、話し掛けられているうちにようやく声を出せるようになってきた。話を聞いて、自分が雷にやられたこと、仲間がヒュッテ大槍へ救助要請に向かったことを知った。
二次災害の危険がほぼなくなった午後1時ごろになって、ヒュッテ大槍から小屋の支配人とスタッフひとりが救助に駆けつけてきた。その間、仲間に動かない足を伸ばしたりしてもらっていたので、足の痺れはとれていた。そこで「自力で歩けます」と言ったが、「いや、そのままで」と言われ、結局、支配人に背負われて小屋に収容された。
小屋ではホットココアを飲ませてもらい、毛布にくるまれて暖をとった。仲間や小屋のスタッフが励ましの言葉をいろいろ掛けてくれたが、やたらと寒いうえ耳鳴りがひどく、背中、腰、胸も痛んだ。
小屋に搬送されたときは、周囲はガスで視界不良だったが、徐々に天候は回復してきていた。午後3時に長野県警から連絡が入り、県警ヘリが松本を出たことを知らされた。その10分後にヘリが飛来してきて、越中をピックアップした。しかし、そのまま病院には直行せず、いったん涸沢で降ろされた。
およそ20分後にもどってきたヘリに再度乗り込むと、機内には登山者がひとり横になっていた。越中同様、雷の直撃を受けた男性だった。男性が横たわったままぴくりとも動かないのを見て、「この方はダメなのかな」と越中は思った。
別パーティの被害者は落雷で飛ばされた
越中が被雷した場所の目と鼻の先にある槍ヶ岳では、この日の朝のうちはやはり晴れていたものの、午前11時ごろになって突然大雨が降ってきて、じきに雷も鳴り出した。山頂直下に建つ槍ヶ岳山荘には、通常よりも早い雷雨の襲来に、たくさんの登山者が避難してきた。山荘内では設置していた襲雷警報器のアラームが鳴り響き、スタッフが「槍の穂先(頂上)には登らないように」と登山者に注意を呼び掛けていた。
雷雨のピークが過ぎ、雨が上がって青空がのぞきはじめたのが12時半ごろのこと。しかし、まだ遠雷は聞こえていて、襲雷警報器のアラームも鳴り続けていたので、ほとんどの登山者は小屋の中に留まって様子を見ているような状況だった。
そんななかで、8人編成の1パーティだけが行動を開始し、槍ヶ岳の山頂に向かっていってしまった。これに気づいた山荘のスタッフが、拡声器で「まだ危険だからもどってくるように」と呼び掛けたのだが、やがて姿が見えなくなった。槍ヶ岳山荘の支配人がこう話す。
「こっちを振り向いたように見えた人もいましたが、声が耳に届いていたかどうかはわかりません。そのときにはもうけっこう上のほうに行っていましたから」
それから間もない午後1時10分ごろ、槍ヶ岳の山頂に一発の雷が落ちた。その瞬間をたまたま目撃していた山荘のスタッフは、登山者が落雷で飛ばされるのを確認した。ただちに長野県警に一報を入れたが、現場周辺ではまだ落雷の危険があったため、「我々が直接現場に向かうから、そちらは出動しないように」と釘を刺された。
しばらくすると遭難者の仲間が下りてきたので、山荘のスタッフが状況を聞いたところ、落雷を受けたのは67歳の男性ひとりだけで、被雷直後から意識不明に陥っているとのことだった。
越中がヘリの機内で見たのがその男性であり、のちに搬送先の病院で死亡が確認された。