真理というといかにも正しいです、などという印象があるでしょう。
人間、今まで教わってきたことが正しいと思うことは当然です。
そうでなければ今までしてきたことが無駄になってしまうと思うからです。
まあ普通はそこまで思わないでしょう。
でも人生に無駄というのはまったくありません。
そして真理には正しいも間違っているもありません。
無駄というものが無ければ私たちは何者であるかという比較対象がなくなってしまいます。
もちろんそのときは何らかの目的を持ち行動していることでしょう。
その目的が叶えられない、または遠ざかってしまうとき特にそのことを感じるでしょう。
ところがその無駄と思えることこそ今一番必要なものなのです。
現代の思考方法は徐々に真実に近づいて来ている?というような感じではないでしょうか。
でも真理では「全てがわからない限り、わかったとは言えない」と言います。
あるものを説明するためには別の何かで置き換えています。
ところがその別の何かもまたさらに別の何かによって説明されているのです。
つまり言葉の置き換えです。代理とでもいうのでしょうか?
本当は宇宙には同じものは存在しません。
似ているものはありますが、違うものです。
そして「今」あるものは次の瞬間には電子の位置が異なりさっきのものとは違ったものに変化しています。要するに宇宙には一瞬たりとも同じものなど存在しないのです。
人間、今まで教わってきたことが正しいと思うことは当然です。
そうでなければ今までしてきたことが無駄になってしまうと思うからです。
まあ普通はそこまで思わないでしょう。
でも人生に無駄というのはまったくありません。
そして真理には正しいも間違っているもありません。
無駄というものが無ければ私たちは何者であるかという比較対象がなくなってしまいます。
もちろんそのときは何らかの目的を持ち行動していることでしょう。
その目的が叶えられない、または遠ざかってしまうとき特にそのことを感じるでしょう。
ところがその無駄と思えることこそ今一番必要なものなのです。
現代の思考方法は徐々に真実に近づいて来ている?というような感じではないでしょうか。
でも真理では「全てがわからない限り、わかったとは言えない」と言います。
あるものを説明するためには別の何かで置き換えています。
ところがその別の何かもまたさらに別の何かによって説明されているのです。
つまり言葉の置き換えです。代理とでもいうのでしょうか?
本当は宇宙には同じものは存在しません。
似ているものはありますが、違うものです。
そして「今」あるものは次の瞬間には電子の位置が異なりさっきのものとは違ったものに変化しています。要するに宇宙には一瞬たりとも同じものなど存在しないのです。
「あんた、それを、例えば、たった今、癌の再発を知らされて、
その事実をまだ受け入れかねている人に向かって、言える?
その事実をまだ受け入れかねている人に向かって、言える?
例えば、まだ小さい時に事故で親を亡くした子どもに向かって、言える?
人生で起きることには何一つ無駄なことはないのよ、
あなたが気づかないといけないことに気づかせてくれるために起こったのだから、って?
人生で起きることには何一つ無駄なことはないのよ、
あなたが気づかないといけないことに気づかせてくれるために起こったのだから、って?
そして、その同じ言葉を
自分の責任など何もないのに重い障害を負ったまま生きていくことになった、
うちの娘に向かって、あんた、そのまま言えるの──?
自分の責任など何もないのに重い障害を負ったまま生きていくことになった、
うちの娘に向かって、あんた、そのまま言えるの──?
相手の状況によっては、自分の言葉がどんなに無神経で残酷なものになりうるか、
自分が他者の置かれた状況に対する想像力をいかに欠いているか、
あんた、ぜんぜん分かってないよ──。」
自分が他者の置かれた状況に対する想像力をいかに欠いているか、
あんた、ぜんぜん分かってないよ──。」
たった今しか本当はありません。これが真実です。あとは記憶です。記憶は本当のことではありません、というか真実ではありません。記憶というカテゴリとしては真実ですが、それは真実とは関係ないものなのです。
今を生きるということは過去と、あるいはまわりのものと比較しないことです。
他人を生きることはできない、と以前にも書きました。
あなたは真実をこう感じているかもしれない。
真実というものがあって何人かでそれが事実だと認めれば、つまり多数が事実だと認めればそれが真実であると。
そのような考え方であれば、上記の「相手の状況によっては。。。」というところがもっともらしく思える。
ところが自分の考え方と他人の考え方は別物だと言えばそのような考え方にはならない。
どちらが真実か?
真実はどちらでもないが、すべては別の考え方であるというのはより真実に近い表現だと思う。
今を生きるということは過去と、あるいはまわりのものと比較しないことです。
他人を生きることはできない、と以前にも書きました。
あなたは真実をこう感じているかもしれない。
真実というものがあって何人かでそれが事実だと認めれば、つまり多数が事実だと認めればそれが真実であると。
そのような考え方であれば、上記の「相手の状況によっては。。。」というところがもっともらしく思える。
ところが自分の考え方と他人の考え方は別物だと言えばそのような考え方にはならない。
どちらが真実か?
真実はどちらでもないが、すべては別の考え方であるというのはより真実に近い表現だと思う。
例えば癌という事実に対しても医者から宣言されれば癌になるかと言えばそうとも言えない。医者が言う前から症状が出ていたかもしれないし、或いは癌でないかもしれない。どこから癌なのか?実は癌細胞というのは誰でも体内に作られている。しかし免疫作用によって防がれている。そう、だれでも癌細胞があると言えばあるのです。再発と言う場合、免疫力以上に癌細胞が増殖してしまった場合ですね。これも助かる場合がほとんどでしょう。
何を宣言するか?あなたは癌ですと宣言するか?その場合何を意味するのか?
何を宣言するか?あなたは癌ですと宣言するか?その場合何を意味するのか?
人生の最期に私たちは何と思うことでしょう。
自分の人生に対してどう思うことでしょうか?
自分の人生に対してどう思うことでしょうか?
私たちには過去に聖人と言われる仏陀やキリストという先輩がいます。
宗教は権力維持や信者獲得のため、真理とはまったく異なった方向に進んでしまいましたが、仏陀、キリストなどの先輩が語った真理を無視するわけにはいけません。もちろんこれらは宗教により相当捻じ曲げられてしまいましたが、まだまだ真の意味を見出せるところがたくさんあります。
宗教は権力維持や信者獲得のため、真理とはまったく異なった方向に進んでしまいましたが、仏陀、キリストなどの先輩が語った真理を無視するわけにはいけません。もちろんこれらは宗教により相当捻じ曲げられてしまいましたが、まだまだ真の意味を見出せるところがたくさんあります。
真理への方向性を見出した時、仏陀もキリストも同じ内容を別の表現で表していたことに気付きます。
もちろんそれに気付くためには、どうして?何で?というような妥協しない疑問の心を持つことが絶対に必要です。言われたことをすぐに納得してはいけないのです。それは表面的に知っている知識でしかありません。ものの本質は「何か」別のものではないのです。言葉を使って説明されたものは、ただ単に言葉を置き換えたものでしかありません。それは本質ではありません。
もちろんそれに気付くためには、どうして?何で?というような妥協しない疑問の心を持つことが絶対に必要です。言われたことをすぐに納得してはいけないのです。それは表面的に知っている知識でしかありません。ものの本質は「何か」別のものではないのです。言葉を使って説明されたものは、ただ単に言葉を置き換えたものでしかありません。それは本質ではありません。