本当のところはどうなの?のブログ

本当のところはどうなの???

生きることの意味

小学生の頃、『生きることの意味』という本を親が買ってきて読んだのだけど、本当に知りたいことが出てなく、何かちょっと自分が知りたいこととは違うんだよな~と思ってまともに読めませんでした。
あの本はいわゆる「オトナ」の都合で書かれた本ではないかと思います。
内容はまったく覚えておりません。
たぶん、内容に期待していたのですが、期待外れだったのでしょう。
 
本当に知りたいのは「なぜ生きなければならないか?」ということです。
その理由がなければ別に死んでも構わないっていうことでしょう。
でもそれが出来ない。
生きていることに意味があるはずだと思うから。
しかもただ「生きる」ためだけに生きているのでもない。
 
現代社会ではある特定のやり方が「いいこと」でそれ以外のやり方は「ダメ」でダメダメ人間にしてしまう。
価値観の押し付けがまかり通っている。
言ってしまえば、「洗脳」そのものなんですよね。
世の中の99.9%以上の人は洗脳されてしまっているけど、自分が知らないうちに洗脳されてしまっているということに気がつかない。
そのような世の中を作ってしまったから。
洗脳されていることに気付けないシステム。
逆に洗脳から覚めてしまった人たちを洗脳されていると言う。
実際に宗教団体に洗脳されてしまっている人も多いが。。。
現代社会にしても宗教団体にしてもどちらを採っても洗脳には変わりは無い。
洗脳されている者が洗脳されているよ!という世の中になってしまっている。
 
自分が洗脳されてないと気付けるのは、実は自分は洗脳されているかもしれないという危機感を持っているときだと思う。
いつも自分が何をしているかを検証しながら第三者的に自分を見ること。
そしてこのような社会の仕組みは何らかの「洗脳」を受けざるを得ないということを認めること。
それが洗脳から解放されるということだと思います。
 
洗脳教育を受けてきた私たちが本当に目覚められるのは魂の衝動です。
魂の衝動がどうしても「生きることの意味」を問わずにはいられません。
魂の衝動が弱い人はここまで来ないかもしれません。
魂という言葉がわからなければ単純に「衝動」でも構いません。
衝動というのはどちらにしても思考する前に出てくる魂の性質がある感情です。
衝動は理由無く真実がどのようなものであるかを伝えます。
 
今の社会システムの中でやる気が起こらない人は、本来であれば正解なのです。
我々の住む環境をこれほどまでに壊していく産業というものは本当に必要なものなのだろうか?
自分の環境を壊しておいて何が嬉しいと思えるのだろう?
やる気が起こらない人は無意識のうちにそのことに気付いているのです。
 
 自分が受けてきた教育が「洗脳」そのものだとしたらどうでしょう。
きっとそのような人たちの思考方法は洗脳しようとしてきた人たちの思いのままではないのでしょうか?
それでは彼ら洗脳者の思いのつぼではありませんか?
 
今まで受けてきた教育を全否定してみるのもいいかもしれません。
自分の思考方法は洗脳によって築き上げられてきたという可能性を否定しないことです。
 
ここまで書いてきたことは私たちの価値判断というのがいかに自分から出てきたものではなく、誰かが決めてきたものかということを知って欲しかったから書いてきたのです。
 
さて私たちの「判断」というものはたいていの場合、誰かが 都合よく物事を進めるために取った方法を反映しています。ですからそれはあなたが本当にしたい判断とは違う場合があるということです。
何かを判断するときは必ずそれを疑ってみましょう。
するとほとんどのことは自分が判断していないことに気付くでしょう。
「誰かが言っているから」とか「みんながやっているから」とか。
そうやってみてみるといかに私たちが判断を他に委ねているのかがよくわかります。
これも洗脳を受けてきた結果です。
それは「自分で判断してはいけません」という洗脳です。 
また今ある考え方のほとんどは金持ちのシステム、金を持つものが権力を使用できるというシステムを基準として成り立っているということも忘れてはいけないことだと思います。
これらの押し付けられてきた判断基準というのは本当は真実とは何も関係ないことなのです。
嘘が世界を支配している結果なのです。
例えばお金でも、何かを「お金」と決めたとしましょう。
それをもとに印刷されて出まわる事になります。
果たしてこの出まわった印刷されたものは本当のお金でしょうか?
「お金」に似せて出まわった印刷物ですが、お金として認められているわけです。
何が言いたいかというと、本物というのは「それそのもの」(この場合は「お金」と決められたそのもの)しかないのですが、印刷されたコピー品までも「お金」として認められているわけです。
本物の「お金」以外のものは「本当の」お金ではありません。
しかし「お金」のように似せていて判断できないほど似ていれば「お金」になります。
見分けが付かなければ本物として扱う、そのような「嘘」がこの社会には組み込まれています。
だから私たちが何か考えを持つ時、先ずそのような考え方に囚われているということを理解しなければなりません。