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本当のところはどうなの???

宇宙の始まりとは?

真理の観点から見れば、始まりとは終わりの対であって、始まりがあって終わりの無いというものは存在しない。
何が「始まり」なのか?
真理はそれについて定義しない。
なぜならば「絶対的」な「始まり」などというものはないから。
あくまでも始まりと言われるものの対である「終わり」から見て始まりである。
明確な定義などは真理には存在しない。
すべてのものに対して、ある特徴を持つものはそれと同等に対になる特徴を持つものがあり、そしてそれらは補完的である。これが全てのことについて当てはまる。
要するとすべての特徴の基本とは表されないときは無であり、表されたときは宇宙となる。

この辺りは現代科学は大きな勘違いをしているところだと思われる。
現代科学はサンプルから法則を導き出し、その法則に則らないものは間違いだとする考え方に基づいている。しかし基準にする法則自体がサンプルにより得られたということを忘れてはならない。

ここでおもしろいことを書いてみよう。
先ず最初に「音」について。
音が「ある」ということがわかるためには「音」を出すものの他に感覚器官が必要になる。
最初に音がわかるようになったきっかけとは一体何なのか?
感覚器官が無ければ「音」は認識されないはずだから、何らかのハプニングが起こらなければ絶対に音は認識されないことになるだろう。
そこでハプニングが起こり、最初はごく僅かな音の認識だったものが感覚器官の発達により音の認識が可能になる。そんな風に考えられているのではないのだろうか?
最初に音を認識出来るようになるためには最初の感覚器官が必要になること。
片方だけでは成り立たない。両方無ければならない。
これを忘れてはいけないし、現代科学者はもう少し考えなければならない部分である。


次に「光」の認識について。
これも音と同様に何らかのハプニングにより「光」を検知する感覚を得ることになった。
その後感覚器官が発達し、目のような形態になったと。

サンプルから得られたやり方では結論は必ず何らかのハプニングであり、突然変異が原因となる。

物事はそのようなリニアなエネルギーの変動ではないということを神智学では言っている。
神智学ではエネルギーは先ず高いものから低いものへと変換して行くという。
それは形而上的なものから具体的なものへと移行していくということ。

具体的と言ってもすべてはエネルギーであり、動きを持っている。
毎回書いているが、動いていないように見える「石」でもその内部では同じ形を維持しようと動き回るエネルギーによって構成されている。さらにそれらを維持しようとする高いエネルギーを持つエネルギーによって維持されている。これらのエネルギーはもちろん見ることは出来ない。なぜならば「見える」というのは「光」の波長であって、それ以上のエネルギーのものに対しては通常のやり方では見ることが出来ないからである。
私たちは「見える」レベルまでいつもエネルギーを落とし、そこから何らかの判断をしようとしている。

これが物質界での具体的な体験なのだと思う。