未だ真実が語られているとは到底思えない毎月勤労統計を巡る問題。これまでの数々の疑惑同様、うやむやのまま終わってしまうのでしょうか。今回のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』では著者で元全国紙社会部記者の新 恭さんが、統計が機能しなかったために歩んでしまったと言っても過言ではない第2次世界大戦「敗戦への道」の詳細を記しつつ、安倍政権の隠蔽体質を痛烈に批判しています。
「必敗」データを無視した戦前の体質を引き継ぐ安倍政権
イチローの引退会見は聞き応えがあった。日々、他の選手と戦っているように見えて、トップアスリートは自分と闘っている。
「人より頑張ることなんて、とてもできないんですよね…あくまでハカリは自分の中にある。自分の限界をちょっと超えていくということを繰り返していく。すると、いつの間にかこんな自分になっている」
「フィギュアは他の選手と戦ってはいけない。戦う相手は自分一人」
苦しみもがいた末に、世界的アスリートが得た信念は、「禅」に通じるところがある。
遥かかなたに聳える山のてっぺんばかり見ていると、苦しくて心が折れそうになるが、一歩一歩、辛さを受け入れつつ、やるべきことをやっているうちに、頂上が近づいてくる。
これを政治の世界に当てはめるのはいささか無理があるのは、百も承知だ。日本は日本らしくといっても、日本らしさの定義が難しい。スポーツと政治力学は別だと言うこともできる。
それでもあえて、アスリートの深い洞察を持ち出したくなるのは、この国の政治から、真実に向き合う姿勢が決定的に欠けてしまったからである。
「一億総活躍」など軽佻浮薄なスローガン、「積極的平和主義」に名を借りた軍事路線、「新しい判断」とごまかした約束破り…。安倍政権が欺瞞的言辞と、円の大量増刷で厚化粧をほどこした政治は、めざすべき頂上も足元の現実も覆い隠し、あたかも国民を思考停止の酩酊に閉じ込めているかのようだ。
筆者が考える日本らしさは、個人の尊厳と自由と平和を大切にする戦後民主主義によって豊かに実り、積み上がった文化、科学、経済的資産である。
東西冷戦が終わり、経済支援を続けてきた隣の大国が、グローバル化の波に乗って、安全保障上の脅威となっていることも確かだが、その覇権主義に対抗することばかりに囚われていると、日本の本質的な強さを見失ってしまうのではないか。
いまの安倍政権を見ていると、あえて言いたくなる。夜郎自大に陥らず、欺瞞的な宣伝文句に頼らず、失敗は失敗として認め、現実の日本に向き合って、新しい地平を開くべきではないかと。
欲が戦争という悲劇を生む。領土への妄執を棄て、自由と平和に生きよ。仏教的な生の知恵と西欧のヒューマニズムがみごとに調和した簡明な主張である。
戦後の自由と平和を所与のものとして育ってきた安倍晋三という人には、戦後に日本人が得た大切なものを軽視する傾向がみられる。
権力を委ねられている為政者には、国民にできるだけ正確な情報を開示し、メディアのいかなる批判も受け止めるという、民主主義国ならあたりまえの心構えが必要だが、彼にはそれが乏しい。
今国会の焦点になっている毎月勤労統計問題への対処もそうだ。
アベノミクスの数値をよく見せるために官邸が関与したのではないかと、取りざたされているにもかかわらず、統計手法の変更を行った経緯の詳細を明確にしようとしない。
「特別監察委員会の樋口委員長は統計の専門家だ。しかも元最高検検事を事務局長に迎えており、中立的客観的な立場から検証作業を行っていただいた」
問題は報告の中味なのに、それには一切ふれないで、統計の専門家や元最高検検事がやっているから信頼できると言う。
だが、報告書には、昨年1月から賃金変化率上振れの原因となった統計手法変更について、当時の加藤大臣や担当者から詳しい聞き取りをした形跡がない。
弁護士、大学教授、ジャーナリストら9人で構成する「第三者委員会報告書格付け委員会」は「独立性、中立性、客観性のかけらもない」と、特別監察委報告を厳しく批判している。
「戦時期に公的統計がその機能を果たしえなかったことが、わが国を無謀な戦争へと駆り立てたことへの痛切な反省から制定された統計法は、統計の真実性の確保を最優先の目的として規定し、その法制度の下にわが国の統計行政は遂行されてきた」
統計不正を厳しく断罪するこの声明に関連して、杉尾議員は「歴史の教訓に基づいて統計法ができたとするなら政治から統計への介入は厳に戒めるべきだ」と指摘。
専門家ではない中江元秘書官が厚労省の統計担当者を呼んで統計手法の変更を示唆したことについて「統計への政治介入ではないか」と追及した。
安倍首相は「統計的見地に基づかない恣意的操作を排し客観性正確性が保たれることが極めて重要」とタテマエを述べたものの、中江秘書官については「専門家ではないが統計のユーザーの立場だ」と、意味不明の擁護論を展開した。
首相や秘書官はユーザーであり、ユーザーなら専門性の強い統計に口を出してもいいということだろうか。民間の統計利用者なら愚痴として片付けることもできよう。だが、総理の仕事を補佐する秘書官が統計手法に疑問を呈したのだ。普通のことではない。安倍首相はこうも言った。
「3年間、サンプルの入れ替えを行っていない中において段差が生まれてくる。3年前にさかのぼって修正する。そこは誰が考えてもおかしい」
これが当時も今も変わらぬ安倍首相自身の本音なのだろう。
ところで、「戦時期に統計が機能を果たしえなかったことが、無謀な戦争へ駆り立てた」という経済統計学会の指摘は、安倍政権が持つ情報隠ぺい体質の危険性にも通底する。
戦前の統計については、各省庁が統計の内容を秘密にしていたので、現在、その詳細を知ることは難しい。比較的研究が進んでいるのは1930年代に内閣統計局が実施した家計調査だ。
これは経年的かつ大規模な統計として知られるが、目的にそった募集や推薦で調査対象者を任意に選定する有意抽出法が採られていた。
無作為抽出法は戦後になってはじめられたものだ。つまり、戦前の統計が国民全体の実情を反映したものとは言い難い。
ただし、戦争遂行に欠かせない基礎データである石油、食糧などの備蓄量は担当省庁で把握していたはずである。
実際、日本政府は日米開戦となった場合に、国の総合力を算定し、勝ち目があるかどうかの検討を行っていたのだ。そして、データや分析に基づくシミュレーションで導いた結果は「日本必敗」だった。詳しく説明しよう。
昭和16年、「総力戦研究所」なるものが内閣直属機関として発足した。当時は近衛文麿が内閣総理大臣だった。「国家総力戦に関する調査研究」が目的で、若手の官僚や少佐、大尉級の武官、エリート民間人が集められ、「模擬内閣」を構成して、対米英戦について、“内閣”としての見解をまとめる議論を進めた。
12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない。
模擬内閣の“閣僚”たちは、それぞれの所管における基本データを揃えていた。たとえば、商工省にいたメンバーは鉄やアルミニウムの製造能力を把握していた。彼らにしてみれば、米英との戦争に勝ち目がないのは自明のことだった。
彼らは「総力戦」を、武力だけではなく、国力全体が動員されるものと定義した。たとえば、鉄や石油が戦争に費やされば、民間工場の使用分が減り工業生産力が低下する。そうなると長期的な国力は疲弊し、勝ち抜くことは不可能だ。出身官庁や企業で毎日のように経済的な国力の数字を扱っていたからこそわかるのだ。
大戦に至らず引き返す道はいくらでもあった。なのに、統計的なデータに裏打ちされた合理的な判断を無視し、軍部とメディアの作り出した戦意高揚の空気に押されるように、上層部は戦争に突き進んだ。
前年と共通する事業所で比較した2018年の「実質賃金」変化率をいまだ公表していないのも、隠蔽的姿勢の一つだ。総務省統計委員会は、賃金の動きをつかむには「共通事業所」を重視すべきだとしている。
野党や専門家の試算では、共通事業所の実質賃金変化率は、マイナス0.3%ほどになる。18年に賃金が大幅上昇したと宣伝してきた安倍政権は、マイナスの数字を出したくないのだろう。
大本営発表は戦況の悪化を伝えず、情報から遮断された国民はB29の来襲に逃げまどい、街は焦土と化した。
「経済敗戦」「外交敗戦」の危機が迫っている。今のうちなら、それを回避する道は見つかるだろう。問題は、事実を直視しようとしない安倍政権の体質だ。
MAG2 NEWS